自尊と責任
青木昭六先生(顧問)
振り返れば、CELES の30周年の大会で、私は、”CELES at Thirty: What Have to Be Put forward”という(熟慮の末、HasではなくHaveを使った)タイトルで挨拶を進めている。
On this occasion of the 30th anniversary of our Society, looking back three decades of accomplishment, I believe we can justifiably claim, with a swelling of pride and pleasure, that our Society has developed its own coherence with an attendant self-esteem and responsibility for establishing close relations between empirical research, advances in theory and better understanding of practices.
それから10年たった今日でも、「仮説の実証的研究のために、理論の有用性に関する検討の具体的発展と実践への適用性に関する理解の促進(下図③c(1)(2)」を密接に関連させ、これを実践に生かす(下図④)という「自尊と責任」を持続してこそ、「誇りと喜び」は高まるという想いに変わりはない。ある仮設の実証のためには、仮説(1)→試行→誤りの修正→仮説(2)という過程を繰り返す必要がある。その実証結果に基づいて長期的指導計画が作成され実践される。その成果が評価されフィードバックされる範囲は広く、学習過程とそれに影響を与える要因に向けられ、英語教育上の戦略や指導上の戦術の域にとどまらず、根源的な英語教育政策にまで遡る。そのサイクルが多岐にわたって関連する分野は、概ね下図のようになる。
② 学校組織(学習環境)にかかわるレベル
③ 英語教育の戦略(科学的発展)にかかわるレベル
④ 英語指導の戦術(実践)にかかわるレベル
⑤ 英語学習(学習者)にかかわるレベル
25周年大会のシンポジウムで学会の回顧と展望が語られているが、40年間のシンポジウムのタイトルと発表者をリストアップ(稿末付記)し、本学会のキーワード・リスト別に分類(下表)してみると、最初の10年間は学としての存在理由を明確にしようとした跡が歴然としている。発表者の顔ぶれにも国語学、教育学の専門家があり、初代会長鳥居次好氏の学会創設に際しての高邁な理想とその実現への並々ならぬご努力の程が偲ばれる。
表:中部地区英語教育学会日本語キーワード・リストに準拠したテーマの分類
1.本質・目的・意義・歴史 英語教育学 1,4,20,21,29,30
歴史 19,25,32,40
英語教育論(含目的論)5,6-1,7,8,10,14,15,17,39
比較英語教育 6-2,36
学校外の英語教育 10
2.教科課程論 カリキュラム 38
教育政策 9,13,31,34,36
公立小学校の英語教育 24
3.教材内容論 言語材料 *
技能 *
文化(国際理解) 26,28
4.教授方法論 *
5.教材メディア論 メディア 27
6.学力評価論 学力 23,35
7.学習者論 10,11,12,16,37
8.教師論・教師教育 2,3,11,18,22,23
9.関連諸学科 *
10.その他 * (*は該当無し)
私が学会にデビューしたのは、その最中の4年目のシンポジウムであった。これは、藤掛庄市氏の「英語教育学はscienceでもliberal artsでもなくprofessionである」という発議内容を事前に渡されていて、それについて甲論乙駁する(テーマに集中できる議論形式として採用すれば今日でも面白いと思う)形式で行われた。書生論じみた議論ではあったが、理論武装する必要がある時代だったことが伺える。私は、その後、11,19,29,35のシンポジウムで折々の問題意識を整理する機会に恵まれた(19以降の発表内容は所属の大学の紀要に掲載)ことに感謝している。英語教育学の本質論についてのシンポジウムは間欠泉のように繰り返されているが、紀要20(静岡大会)にみられる松川禮子氏の「本学会における研究のレビューと展望」は英語教育研究の王道を指示していて、今なお、その新鮮さを失っていない。
私自身は外圧によって始めて動くという怠け者なので、草創期の生みの苦しみには無頓着であった。「学会を育てる」という目的を一途に追求された初代会長鳥居次好氏と運営委員長佐々木昭氏の卓越したリーダーシップがあり、その滅私な伝統は二代会長佐々木昭氏と運営委員長諏訪部真氏に受け継がれた。不肖私が三代目の会長を仰せつかった時、この一局集中型の超人的奉仕を余儀なくしている組織と運営を改め、副会長2名(研究担当と運営担当)と紀要編集委員長の分業制にした。徐々に充実してきた学会活動をcareしshareするためには、One for all.よりかAll for one.の責任体制に近いほうがよいと判断したからであった。All for one.という考えは、歴史の大波の中では偶発時の小波に過ぎないかもしれないが、他の3つの面でも改革を行うことができたので、ささやかな「誇りと喜び」を持って付記しておきたいと思う。1つ目は、運営委員の時、研究テーマの整理の枠組みを提案したことである。私案は松川氏によって洗練されたものとなり(紀要20参照)、キーワード・リストとして実現した。2つ目は、第7回三重大会の開催に当たって、個人単位、県単位を乗り越えた学会としての課題別テーマを提案し、「誤答分析に関する実証研究(2会場)」と「導入に関する実践的研究(1会場)」を実現したことである。この単年度の試行は、後年、茨山良夫氏の(副会長(研究担当))の肝いりで息を吹き返し、今日に至っている。(同時に、各県単位の学会の活動もパネルに掲示して参加した会員に公開してはどうかと提案したのだが、これは日の目を見なかった。)3つ目は、地区大会補助費を請求したことである。(三重大会では3万円だった)。現在では当たり前のことになって予算化されているが、当時は執行部を驚かした要求であったらしい。
しかしながら、この「ささやかな誇りと喜び」を「自尊と責任」に結びづけていくためには、One for all.の心構えが必要であろう。特に発表される論文は、仮説→試行の中途半端な段階の独善的なOne for one.に終わらないようにしなければならない。実証的研究を進める際の分析は分解とは異なる。分析は創造であるが、分解は破壊である。創造には説明できることの限界を明らかにすることによって課題の謎を深める効果がある。その創造性が更なるOne for all.を生み、学会全体の研究も更に充実していくものと考える。
私の本学会に寄せる思いは、紀要25(和歌山大会)に載せた「学会設立25周年記念大会に際して」の中に集約されている。多少、情に溺れた面もあるが、それを転記することをお許しいただき、結びとしたい。
この学会が、卓越したリーダーシップの下に、お互いに謙虚な「人生の学徒」であり、真摯な「言語教育の探究者」であろうとする会員からなるとすれば、この学会は、中部の秀峰富士に譬えることが許されよう。富士は徒に高きを以て貴いわけではない。確かに、富士は日の光や星の影を逸早く映して、遍路の行者に指針を与える霊峰である。しかし、富士の真の貴さは、その峻厳さにあるというよりも、温かで素朴な人間味を感じさせる裾野の豊かな広がりと深さにある。そこには、未来に繋げるための倒木更新の営みがあり、生の躍動がある。樹林に巣くう野鳥の囀りがあり、濃緑の苔に煌めく清流の囁きがある。木漏れ日に微笑む草花の慎ましさもある。全てのものが、生きる苦しみもあろうに、心の底から湧きあがる一刻の喜びを相互に求め合い、分かち合うことによって、それに永遠の命を与えようとしている。われわれが、言語教育を通して、人生の若い学徒たちが進んで求め、分かち合ってほしいと願っている能力(知識・技能・態度・方略)は、日本人としての伝統的価値観であり、異質なものを理解し共感できる心であり、曖昧さに対する耐性であり、課題を独力で正当に処理できる能力であろう。これらは単なる言語中心主義からも単なる学習者中心主義からも生まれない。強いて言えば、両者を止揚した学習中心(learning-centered)主義にその糸口を見出すことができるのではなかろうか。少なくとも、われわれにマンネリズムを打破し、探究者もしくは独創者としての喜びを求める気概のない限り、われわれから、新しい木が芽生えて、何百年、何千年の森が育つことを期待することはできない。学会設立25周年記念の和歌山大会における、和して歌う山の響きが、過去の労苦への鎮魂の鐘となり、未来の夢への挑戦の鼓となり、中部地区と言わず、日本の、さらに、世界の英語教育界の着実な発展を促す起爆剤になってほしいと願う。多士済々、進取の気性の豊かな学究の集いであるわが学会は、必ずや、それを可能にすると確信する。